昭和52年12月13日 十三日会   入力者【明渡徳子】



信心をー、しておれば一年一年有り難うなってくると教えられるが、信心をただ続けておるから有り難くなるということではない。それでは有り難くなれない。お願いをして成就する。それが有り難いというのが有り難いのではない。もういつも有り難いというもの。その心が育っていくと言うことですから。

そこで、神様の願いが分かり、神様の願いに応えることのできれる信心を、おー、頂かなければいけない。この十三日会というのが、神願が成就する、神の願いが成就する日として合楽では大事にいたします。んー、神様の願いとは、んならどういうことであろうか。まあ一言で言やあ、ほんとに氏子が助かってくれるということなんです、ね。

氏子が毎日喜びの心いっぱいで育っていくということが、神様の願い。もう他にはないと言うてもよいぐらい。ただ、生きとし生けるものと言えば、人間だけじゃありませんけれども、その中の生きとし生ける者の中のとりわけ、人間は万物の霊長と言われ、言うならば両親を持ち、言わば心次第で、そのー、神の手にも足にもなられれるというような内容を持っておるのが、人間だけなんです。

ですから神様の願いが、あー、というのは人間氏子が助かってくれるということ。おかげを頂いてくれるということなんですけれども、そのおかげを頂くということが、言うならどういうことかと。それは、信心をしておれば一年一年有り難うなってくるという信心でなからなければならんということなんです。

ところが、なかなか一年一年有り難うなっていくという人が少ない。ご縁を頂いておればおかげを頂く。お願いをすれば、やはり成就する、ね。だが、それだけが信心の取り柄であっては、いわゆる神様の方の助かりになってこない、ね。やはり神も助かり、氏子も助かり、いわゆる神と氏子とが、あー、お礼が言い合えれる、拝み合えれるという世界。

いわゆる合楽の世界、ね。相対しておる者同士が、拝み合う喜び合えるという在り方というものが、段々育っていかなければならない。えー、先ほどから続けてここでお届けさせて頂いた方の中に、ちょうどここに座ったらすぐ岡山から岩部という先生が修行に来ております。

ちょうど「今日が修行にこらせて頂いて丸一年に今日なります」と。ほんとに一年の間修行させて頂いて有り難いというお礼のお届け。で、十三日会の御礼のお届けと2つのお初穂持って、ここへお供えに来ました。ちょうど私が、ここのこれがちょうど120名ここにお届けができれるんですよね。

その120名目のところに「修行御礼」ということになってるんです。ここへ120に、ここうしてきとんならね、病人の時には必ずー、もうこれは寿命だというような時ですね。病人のお届けがあると。120目に。それをほんとにね、こうやって押しのけちからポンとこの中に入ってくる人がありますよね。もうそういう時にはもうほんとに冷や冷やするような感じがします、ね。

けれども、これが信心を一生懸命させてもらい、修行させてもらっておる人たちがここへ来る時には、最高にお前の修行は神が受けておるぞという時なんですからね。「岩部先生、あんたが1年ちょうどここへ十三日会の御礼が119人目、そして心行御礼が、岩部てつのりの-、言うならば1年間の修行を受け取ったぞと言わんばかりのものを感じるじゃないか」と、言うてね。私神様にお礼をもうさせて頂いておったら頂きますことがね。

②●こんな丸い輪がね、2ついわゆるその輪がこのくらいばっかり切れとると。これがまんまるうしておる。で、私御神願に頂くのは、このくらいばかし切れとる。●だからね、信心とはどういうことかと言うと、結局は私と言うものが、空しゅうなるということなんです。本当を言うと。自分と言うものが空しゅうなる。

いわゆる言うならば、もう神様任せの生き方がでける。自分の我情が出る、我欲が出ると言う間は、自分というものをゼロにしていない証拠です、ね。けれども、自分というものがゼロになった時にね、言うならば1があたくしどもであるなら、それに1つの輪がついたのですから10になるわけです。もう1つこれに輪がつくと100になるです。

もう1つ空しゅうなると1000になるです、ね。そこから千にも万にもなっていくような1人がおかげを頂けば、千人も万人もおかげを受けるようになるというようなおかげが頂かれる、ね。千人も万人も助かるほどしの中心にあたくしどもが、ならせて頂けるようなおかげ。特に、なら取次ぎ者の使命というものが分かれば分かるほど、自分というものを空しゅうするけいこを一生懸命してる。

だから、まああたしが2つ頂いたということは、岩部先生がここに参らせて頂いて、もうこのことだけは自分を空しゅうして、もう自分を、おー、空しゅうしてというような修行が出来ておることであろうとこう思う。けれどもそれが完璧に出来てないというわけなんです、ね。このくらいばっかふいておる?これじゃあの、ゼロにはならん。これがまるという、こういうまるにならないかん。ゼロにならなきゃいけない、ね。

まあ例えて言うと、そうですね、ほんとにあのこれ自分を空しゅうする、自分をなくするということになりますと、もうそこに腹は立ちませんですね。自分があるから腹が立つのです。ですからどういうようなことがあっても、言うならば、あー、御の字を付けて頂くという気になる。有り難くそれを受けると言う気になる。これによって修行させて頂くという気になる。

それを完璧に、もう言うなら一生腹を立てませんといったようなのは、もう自分というものを空しゅうしておるという姿ですからね。これはあの、あたしは肝心なこの丸ということになるでしょうが。そういう信心がです。2つではない、3つではない、段々でけていって、もう自分自身からいよいよ空しゅうなって来る時に、神様と一体になれるような働きという、言うならば、神様と合楽することのできれる信心というものが、まあ言うなれば最近の御理解を頂くと、おー、もうそれこそひとりでにものができるようなものであろうぞいというおかげになってくるわけです、ね。

で、もう合楽ではそういうおかげをね、ちょっとした手本を私はここでみなさんに示しておるわけです。なるほど、必要な物が必要に応じてこう頂けてくる。おえてきておる、ね。そのためには、私というものが、いよいよもっともっと空しゅうなっていけば、もっともっと大きなごひれいになって来ることでしょう。

それからこれは、うーん、昨日の朝でしたけれども、秋永先生のところのすぐ近所にきよまつさんという、てもお父さんやらご兄弟やらがみんな参っておられます。きよまつさんというあの、理髪屋さんをなされてます。ところがこの頃どーうもその、もう何かにが不調である。どういうことだろうかとどういうことだろうかと思うて、朝の御祈念にお参りをした時に、そのー、合楽教会大発展の御神願御成就。これを願わなければいけないよという御理解を頂いた、ね。

合楽教会大発展の御神願御成就。例えばここに忽然として、合楽のお広前が今こうしてでけた。ようやく、まあだ10年しか経っておらんけれども、たくさんの人がここで助かるようになった。先日から、ここでー、えー、10年の記念祭がある時には、3千数百名の者がおかげを頂いておる。もうそれこそどこから集まって来るか分からん。それこそ九州中どころではない。

山口、岡山、広島、東京あたりからまでもの参拝者があっておった、ね。そういう例えば、あー、おかげの、言うなら信者の増加に従って、おかげもそれだけ、え―、広く行き渡っていっておるということになる、ね。みなさんが合楽教会大発展の御神願を祈られるからである。そういう、大、合楽教会大発展の御神願を祈られるということは、その願いは神様のそのまま願いなのです。

神様の願いが、ここに合楽教会というものを創りなさった。だから、合楽教会が大発展をするということは、そのまま神様の願いであり、合楽教会が大発展をする時には、あたくしの家もその中にあるのだから、発展していくようなおかげに繋がるほどしの繋がりが、関わり合いというものが濃ゆうなっていかなければいけない。

だから、合楽教会大発展の御神願ね。が、成就いたしますようにと願えば、めいめいのところの、言うならば商売をしておれば商売の発展は間違いないのだと。というご理解を頂いて、もうその日からその晩から、そのご祈念を一生懸命させて頂くようになりましたら、もうほんとに親先生もう不思議なこと不思議なこと。

あくる日から元にも倍するような繁盛のおかげを頂いておりますというのが、昨日のお礼であった。「ほう、そんならいっちょ今日からあたしもそげんしてお願いしよう」と言うただけじゃいかんです。もうそれがね、お願いせずにはおれない。人のことを、なら人のことを願わずにはおれない。

教会のことを願わずにはおれない。教団発展を願わずにはおれないというほどしの、いわゆる今日私が、信心が育っていくということはね、ほんとに自分の信心は小さかった。自分のことばーっかりであった。それが人のことを祈らずにおれなくなってくるその範囲というものが、段々広がってくるという私は、あー、信心がですね、神様の願いが成就していくことであると同時に、神様の願いに応えていく信心だというふうに思うんです。

今日はそういうお届けが次々とございました。今もご祈念にかかる前に福岡の伊藤さんがお届けをされますのに、この頃ご本部参拝、10日の報徳祭を拝ませてもらった。もういつもは何か知らんみんなが、あー、楽しゅうまあ信心のある者同士で、まあ言うならわやわや言うて、まあ言うなら遊ぶ気分は十分あったような感じのお参りだったけれども、この前のお参りの時に、どなたかが、あのー、「せっかくお参りをするならば何か頂いてこにゃ」と、言われるのを横で聞いておって、ほんなこてせっかくたくさんの旅費を使って、日にち使うてお参りするのだから、何かを頂いて帰ってこにゃあという、もう一心のものですから、もう行きがけから姿勢が違うておった、ね。

そしたら、奥城で頂かれることが、もうほんとにもうなんともかんとも言えんその、まあ、あー、ことを頂いておられる。三代様の奥城で頂いた時なんかは、あそこの前の木に節があると言われる、ね。あらこれ木に、こう板に節がこうある。一生懸命拝みよったらその節がこのめん玉になっておるっち。

とうとう訳はわかりませんでしたけれども、という今お届けがあったんです、ね。ですからね、そのよく言うでしょうが、ね。「私の目を節穴のごと思うとる」といったようなことを申しますでしょう、ね、ね。神様がね、見てござるんだ、聞いてござるんだという中に生活させて頂くのがほんとの信心生活です。

神様が聞き通しに聞いてござる。神様が見通しに見てござる、そこにある生活を信心生活なんだと、ね。神様をいつも感じておるということなんです。そこに神様から感じられるおかげを頂き、感じ感じられる、いわゆる合楽の世界があるのです。そっから生み出されないはずがない、ね。

だから、「神の目を節穴とでも思うなよ」と、ね。「お前の一部始終のことをちゃーんと見たり聞いたりしておるんだぞ」と。最近その伊藤さんが、そういうことに段々なっていっておられる。先日も夢の中に、高ーい段々がある。下のほうに合楽のご信者さんがいっぱいあられる。そこを一人の男性の方が、こう登ってこられる。

顔も見えない。そしてよくよく見ると、片足がないっち。一本足で上がってきよんなさる。けれども、その方と自分が結婚せねばならん。これが普通の人間心じゃったら、顔もめっからん、どげな顔してござるじゃろ。しかも足は片一歩片あらず。とてもこげな人と結婚せんならんなら、とてもあたしはごめんこうむると普通なら言いたいところだろうけれども、そのときに心の中から湧いて来る心が、「神情」であった。

いわゆる神心であった。はあ、私はあの人と結婚しなきゃ、顔はどういうにご?しい顔してござるかもわからん。足は片一歩しかないけれども、「あたしは一生涯この人の足になろう」と思うたというお夢です。だからこれは悪いお夢じゃろうかと言うて、あのその  にお届けに見えましたけれども、「伊藤さん有り難いねー」と言うて、まあ2人で話し合ったことでした。

天地の親神様はどういう方かは、姿も形も見えんのだから分からんけれども、その神様の手にもなろうか足にもなろうかというような心の状態が育ってくるということが、信心が育っていきよる時。神願成就、神様の願いが成就するということはね、人間が助かるということ、ね。おかげをおかげと知って、有り難い有り難いの導きができるということ。

その有り難いが、そのままあの世にも持っていけるというのがお道の信心の、おー、言うならば姿勢観は、そういうところから生まれてくる姿勢観、ね。だから、この心が有り難うさえなっていきゃあ、この言うならば、あー、生き方を体得する限り、なら魂の世界に入っても有り難くなるけいこをさせて頂くということ、ね。

だからこれはもちろん魂の世界にまでも繋がることなんです。ですから、ほんとに有り難くならせて頂く手立てというものを、まず私は教えによって分からなければいけない、ね。その有り難くならせて頂こうと思うけれども、有り難くなれない。そこには、有り難くなれない。有り難いというものを吸収する。有り難いというものを、に災いするものが自分の心の中に必ずある。

それを、信心は日々の改まりが第一だと言うのです。改まる、有り難い。確かに有り難いものを頂いて帰ってきよるけれども、家ではもう有り難くない。途中で何かに吸い取られてしまっているということなんですから、ね。その何が有り難いを障害をするのかということを見究めて改まっていく、磨いてもいくという生き方をいよいよ身につける。

そして、私の願いが成就するということと同時に、ね、ほんとに神様がかけておられる願いが成就することの願いに立たせてもらう。それが、十三日会の芯なのでございます、ね。ですから自分の祈りが大きくなるというのですから、おかげの受けものが大きくなるのですから、おかげはもう言わずのだなです、あります大きゅうならないはずがない、ね。信心が育っていくということはそういうこと。

いよいよお互いの信心はね、育つと言うことと育てられるということが一つになって、ね。神様が御用に使うて下さる時には、使われようと言うのではなくてね。こちらが「使うてください」と言い、ね、神様が使うてくださるというその一つのところからですね、いわゆる合楽の世界が広がってくる。

今日は、んー、信心は一年一年有り難うなって来ると言うがね、その一年一年有り難うなっていくといったような信心からでなからなければ、ほんとの良いものは生まれないし、神様の願いというのは、もう決して神様が「ああもしてくれこうもしてくれ」ということではなくて、氏子が真実助かっていくということが、神の願いである。

その手立てが、ここでは毎日説かれておるわけですよね。十三日会という日は、そういうことをいよいよそれぞれの信心によって極めていこうと。めいめいの信心によって、その信心の段階に応じてです。次の手がかりを頂いていこうというのが、十三日会の願いであります。どうぞよろしゅうお願いします。